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Deleuze, Cinema I  Image-mouvement, 1983

ドゥルーズ『シネマ1 運動イマージュ』


・coupe=カット
・plan-sequence = シークウェンス・ショット
・gros-plan = クローズ・アップ
・cadrage = フレーミング
・decoupage = cutting

・知覚され、体験される時間。感覚=運動系を軸とした身体の働きに依存する映像(行動イマージュimage-action)
・現在を軸に繰り広げられる経験のイマージュ
・動的な切片(coupe mobile) としてのモンタージュ

●第1章 運動についての諸テーゼ(第一のベルクソン注釈)

運動の本質とは? 

1 総体(ensemble)=閉じたシステム、運動の動かない切片……フレーム(cadre)

2 運動=補湯面的には総体において諸部分や諸対象の間に生じる位置……ショット(plan)

3 全体(tout)=開かれたもの、持続の絶えざる質的な変化……モンタージュ(montage)

●第2章 フレームとショット、フレーミングとカッティング

1 フレーム(コマ)は相対的に閉じたものとなるにつれて、絶対的な意味で、全体……持続との関係においてより開かれたものとなる

2 ショットはフレームの連続であると同時に運動イマージュである。つまり、全体の変化を表現するものである。

3 

●第3章 モンタージュ

1 モンタージュはショットを組み合わせることによって全体の質的変化を表現する。
  アメリカ派=有機的な表象のシステム(交替モンタージュ、クローズアップモンタージュ、平行モンタージュの三つ)

2 ロシア派=弁証法的モンタージュ(アメリカ派とは異なり、様々なショットの対立を乗り越え、質的飛躍を目指す)

3 フランス派=運動と運動との韻律的関係を基準として、光=運動の一元論のもとで機械的な構成によって数学的崇高さが達成される
  ドイツ派=運動の強度を基準として、光と闇との対立のもとで力学的崇高が達成される

●第4章 運動イマージュとその三つの変種(第二のベルクソン注釈)

1 運動=物質。……イマージュと全体の質的変化である運動は区別されない。運動イマージュ。

2 ベルクソンの言う「主観的な知覚」から客観的な知覚への移行を映画的知覚は可能にする。なぜなら、映画の知覚はカメラ移動やモンタージュによって中心が不在であり、フレームによって世界から切り離されるからだ。こうして作用は、作用(物体)と反作用(質)と両者の間(行動)の三つの局面に区別され、それぞれが知覚イメージ(ロング・ショット)、行動イマージュ、情動イマージュ(クローズアップ)に対応する。

3 

●第5章 知覚イマージュ(image-perception) 

1 映画は自由間接話法に相当する「強迫的フレーミング」によって主客の対立を乗り越え、超越論的となる(唯物論的解決)。

2 カメラの位置のめまぐるしい変化によって固体の知覚から流体的な知覚へとさかのぼることによって解決する(実在論的解決)。

3 運動イマージュの完全な知覚へ至る道も可能であり、ヴェルトフらによってこれはなされた。

●第6章 情動イマージュとクローズアップ 

情動イマージュとは、純粋な質あるいは力能(puissance)の表現としての表情である。それは純粋な潜在性となる。ドライヤー。

●第7章 行動イマージュ

行動イマージュにおいては、感情イマージュでは潜在性であった力能(puissance)が個別化された具体的な場所へと現実化されて、力(force)となる。アクターズ・スタジオ。黒沢・溝口。

●第8章 欲動イマージュ

●第9章 行動イマージュ 大形式

●第10章 行動イマージュ 小形式

●第11章 形象または形式の変容

●第12章 行動イマージュの危機

関係イマージュ

関係イマージュにおいて問題となるのは、単発的な行動(action)ではなく、論理的な関係性をはらんだ行為(acte)である。ヒッチコック。

感覚運動連関の危機における新しいイマージュ(時間イマージュ)の出現

・イタリアのネオ・レアリスモ、フランスのヌーヴェルヴァーグ
・モンタージュは時間の非直接的(indirect) なイマージュである。
・感覚運動系の弛緩と解体
・opsigne と sonsigne:「感覚=運動的な結合をたちきった純粋な光学的・音響的なイマージュ。それは関係を逸脱し、運動の用語では表現されず、時間に直接開かれている」(1巻の巻末の用語集より)
・espace quelconque (any spaces whatever) の解放=真空にされた空間。あるいは部分の繋がりが固定していない空間。

散逸的状況、故意に弱められた脈絡、彷徨の形態、紋切り型の自覚、陰謀の告発。

image-temps

オーソン・ウェルズ以後
・感覚運動系との関係や身体の現在の行動との関係を遮断されたもの
・時間は運動への従属から解放されて、直接に現れ、偽の運動をつくりだす。
・「純粋に光学的・音響的な状況」situation purement optique et sonore
・時間の蝶番がはずされて過去の諸層が共存しながら現れる(「市民ケーン」、「去年マリエンバードで」(レネ))=フラッシュバックとは無縁な記憶

 


英語版への序文

  この本は、映画の歴史の本でもでもないし、技術書でも、言語学的なものでもない。映画は諸々のイマージュと記号から構成されている、理解可能な前言語的内容(純粋記号学) であるように思われる。ところが、言語学的な発想の記号論はイマージュを捨て、記号なしですまそうとしている。 映画のイマージュは、「自動的」で、基本的に運動イマージュとして提示されるのだが、どう いった場合に次のタイプに定義されるのかを考える。そのタイプとは、基本的に、知覚イマージュ、情動イマージュ、行動イマージュである。 これらの分類は、確かに、時間の表象を決定するが、注意しなければならない のは、時間がモンタージュに頼っており、運動イマージュに由来している限り、 時間は間接的な表象の対象にとどまるということである。
  戦後、直接time-imageが映画に描かれるようになった。そのまえの、movement-timeのころの関係と逆になり、時間がmovementと関連しているのではなく、movementの変種が時間に依存するようになった。movementから引き出されるのは直接的なtime-imageで、直接的なtime-imageが『まわり道』を動かすのだ。何故戦争がこの逆転を可能にし、どのimageがこのtime-imageにあてはまり、どのsignがこれらのタイプにあてはまるのか。あらゆる物が突然この壊れゆく sensory-motor schema にあらわれてくる。この図(schema)は、かつて perception, affections とactionsと結びついていたが、深刻な危機を迎え古きimageの体制が変えられていく。トーキーで起ったのよりももっと重要な変化に耐えている。
 現代のtime-imageの映画の方がmovement-imageの映画より価値があると言っているわけではない。映画は、それが発明し、ある所与の時点で使用できるイマージュと記号を考慮に入れる限り、常に可能な限り完璧なのである。だからこの本がimageとsignの具体的な分析と イマージュや記号を創り出したり新しくしたりした偉大な作家の「論文」を織りまぜるのだ。
 最初の巻では運動イマージュを、二巻では時間イマージュを扱うつもりである。一巻の最後ではヒッチコックの完全な重要性を理解するつもりだ。なぜなら彼は イマージュの驚くべきタイプ、すなわち精神的な関係のイマージュ を発明したと我々は考えるからだ。関係を構成する諸項(terms)と外的なものとしての関係は、つねにイギリスの哲学的な思考の主題でありつづけている。 関係が終わる、あるいは変わるとき、この諸項に何が起こるのだろうか。それゆえヒッチコックはマイナーコメディ『スミス夫妻』 において彼らの婚姻が法的なものではなく、一度も結婚したことがなかったと突然知った男女に何が起こるのかと問うたのだ。まるでイギリスの哲学者が関係の哲学を作ったように、ヒッチコックは関係の映画を作ったのだ。この意味で彼は おそらく、彼が完成した古典的な映画と彼が準備した現代的な映画という二つの映画の接合点にいるのだ。


序文

  これは映画史の研究書ではない。イマージュと記号を分類する試みである。
アメリカの論理学者パースはしばしば参照されることになる。なぜならパースは、自然史でいえばリンネのように、イマージュと記号に関して、これまでで最も完全で網羅的な分類を確立したからだ。
  パースに劣らず重要なのがベルグソンの『物質と記憶』(1896)である。これは心理学が当時直面していた、ある危機に対する診断書だった。そのころすでに、運動=外界における物理的現実、イマージュ=意識の中の心理的現実、という二分法が成り立たなくなってきていたのだ。 ベルグソンが発見した「イマージュ運動」と、より深い「イマージュ時間」は今日 においても深さと豊かさをもっており、そのすべての結果が引き出されているのか定かではない。ベルグソン自身はのちに映画に対するやや短絡的な批判を書くが、これは「イマージュ運動」と映画的イマージュの結びつきを何ら妨げるものではない。
  偉大な映画作家は思想家に似ている。彼らは概念の代わりに「イマージュ運動」と「イマージュ時間」を使って思考する。
映画作品全体の中で大きな割合を占めるのは駄作だという指摘はこのことに対する反論にはならない。映画の場合、駄作が他のジャンルとは比較にならないような商業的かつ経済的結果を生むことはあるが、駄作が占める割合が他のジャンルに比べて例外的に大きいわけではない。 それゆえ、偉大な映画監督たちは他ジャンルのアーティストよりも傷つきやすく、製作の邪魔をするのが簡単なだけだ。映画史は殉教者の長いリストなのだ。映画は、それでもなお、芸術と思考の歴史に所属している のだが、それは、それにもかかわらず優れた作家たちが発明することができ、上映することができる、かけがえの無い、自律的な形式においてでである(Le cinema n'en fait pas moin partie de l'histoire de l'art et de la pensee,, sous les formes autonomes irremplacables que ces auteurs ont su inventer,, et faire passer malgre tout.)
 我々は本文の説明となるような写真は一切掲載しない。なぜなら、むしろテクストのほうこそが数々の偉大な映画の単なる説明でありたいと思うからであり、 そうした映画については我々のそれぞれが多かれ少なかれ思い出や感動や知覚を持っているからだ。Nous ne presentons aucune reproduction qui viendrait illustrer notre texte, parce que c'est notre texte au contraire qui voudrait n'etre qu'une illustration de grands films dont chacun de nous a plus ou moins le souvenir, l'emotion ou la perception."


第1章 運動についての諸テーゼ 

1 ベルクソンについての第一の注解

 ベルグソンは運動についてのテーゼをたった一つ提唱したのではなく、三つ提唱した。一番目のものは最も有名であり、あいまいな他の二つのテーゼの脅威となるものである。しかしながら、それはその他のテーゼへの導入部であるにすぎない。初めのテーゼに関する限り、運動は 踏破された空間(espace parcouru)とは全く異なる。espace parcouruは過去であるが、運動は現在であり、これは走破する動きなのだ。espace parcouruは分割可能であり、実に無限に分割可能なのだが、一方、運動のほうは分割不可能であり、あるいはまた、それが分割されるたびごとに、質的なものが変わることなく分割されることは出来ないのである。これはすでに、より複雑な概念を前提としている。つまり、espace parcouru は全て単一であり、同一であり、均質の空間に所属するのであるが、それに反して、運動のほうは異質であり、それらの間を減らすことは不可能なのである。


 「踏破された空間」は分割可能で均質的なのに対し、運動は不可分で不均質で、互いに還元不可能である。
 運動を空間の諸位置や時間の諸瞬間から、つまり静止したカット(coupes)から再構成することはできない。個々の運動はそれ固有の具体的な持続をもつ 。「現実の運動→具体的な持続」、そして「不動のセクション+抽象的な時間」。
 1907年の『創造的進化』でベルグソンは不完全な定式を提出している。映画を幻影、偽りの運動であるとして批判している。ベルグソンは映画を、瞬間的なカット(イマージュ)と、非人称的で抽象的でかつ不可視な時間の2つの要素から構成される、ゼノンのパラドックスのような幻影だと批判している 。この点で彼は、自然な知覚と映画的知覚を区別する現象学とは袂を分かっている。「」
 しかし、映画が幻影だとして、その再生には(知覚的な)修正作業が必要とされるのではないか。映画は確かに1秒に24コマの静止画像の連続だが、そこから生まれるのは運動が直接的な与件として所属しているような平均的なイマージュである 。このイマージュが自然の知覚と異なるのは、知覚の前段階で修正が施され、ある主題に沿ったイマージュとして知覚可能になる点である。つまり映画はイマージュを与えてそれに運動をつけ加えるのではない。映画がわれわれに提出するのは「イマージュ-運動」である 。ベルグソンは『創造的進化』に先立つ『物質と記憶』では、この「イマージュ-運動」を発見していたのに、なぜ映画を批判したのか。
 物事の本質は、起源ではなく、発展の過程で明らかになっていくものである。(これは「新しさ」はいかにして可能かを考察したベルグソンにはもちろんわかっていたはず)
12映画においても同様で、その初期において映画は自然の知覚を模倣しようとしていたし、初期の映画は視点が固定され、構図は不動だった。
13映画がその本質を明らかにしたのはモンタージュ、キャメラの移動、視点の解放によってである


 

『シネマ2 時間イマージュ』




 「キリスト教徒であれ無神論者であれ、私たちの分裂した宇宙において、私たちはこの世界を信じる理由を求めている。これこそが信仰の転回である。……私たちの務めは身体を信じることだ。生きた胚細胞を信じること、植物の種子を信じることだ。種子は発芽して敷石を下から剥がす。聖者の遺骸を覆う布の中でも、木乃伊を包む布の中でも、種子は自己を保存して永らえてきたし、まさにこの世界の中で生命を証し示している。私たちは倫理や信仰を必要としている。こう言えば馬鹿どもは笑うだろう。しかし私たちが必要としているものは、別の何かを信じることではなく、馬鹿どももその一部としてあるこの世界を信じることなのである」

 

第三の歩みは『上海から来た女』とともに踏まれる。それはまず、過去の諸層が思い出イマージュのすべての部分からあふれ出ているからなのだ。たとえこれらのイマージュが浮遊し、死以外の適用を持たなかったにしても、それらの喚起はそれらに上のようなイマージュを生み出させる。今や状況はとても異なっている。過去の層や領域はつねにそこにあり、まだ互いに区別されており、呼び起こせるものではもはやないが、もはやいかなる思い出イマージュも伴っていない。いかなる思い出イマージュも過去の層を保障せず、そこからその痕跡を取り出すこともないのに、過去の層はどうやって自らを知らせるのだろうか? 過去は自ら生じると言うかもしれない、しかしそれは、独立し、気が狂っており、アンバランスで、いくらか未熟で、奇妙に活動的な時代遅れの、放射性の、現在においてはそれらがどこから生じてきたのか説明することができないだけに、ますます有害で自律的な諸人格という形のもとで生じるのである。これはもはや思い出ではなく、幻覚である。これは狂気であり、 分割された人格であり、今や過去について証言している。『上海から来た女』という話は、はじめはナイーヴだったが他人の過去にとらわれ、襲われ、捕捉された主人公の話である(影響を云々することはできないし、ウェルズを不快にするだろうが、ここにはミネリのテーマとの類似がある)。これはアンバランスな関係にある三人の話だ。まるで過去の三つの層が主人公に侵入してくるかのようだ。彼がこれらの層を思い出させることはまったくできないし、そのどれを選ぶのか決定することもできないのだが。一つめは悪魔のような動機をもって現れるグリズビーのものだ。主人公に彼が一見偽装された殺人を提案するにもかかわらず、この層によって主人公は殺人によって訴えられることになるだろう。二つめは杖・付随・怪物的な跛行をもったバニスターのもので、彼に自信に満ちた弁護を提案するにもかかわらず彼に有罪の判決が下ることを欲するだろう。三つ目は中国人街のとてつもない女王である女のものでであり、主人公の狂った愛人であるというのに、その愛とオリエントに由来する解読できないある過去の奥底を利用しようとしている。気の狂った諸人格において具現化されている主人公は、これらの過去をまったく知ることができないためにますます狂気じみていくのだが、彼の投影は独立したものになっているのかもしれない。『上海から来た女』において大文字の他者たちはまだ実存しており、現実性をもち、立役者となっている。(Deleuze, Cinema 2, p. 147-148)


[...]自動機械〔オートマット、ロボット〕の現代の形象は、電子工学的な自動性〔オートマティスム、規則性〕の相関物だ。電子工学的映像、つまりテレビやヴィデオの映像、数値的に生み出される映像〔コンピュータ・グラフィクス〕は、あるいは映画を変形し、あるいはその死を刻印してそれに取って代わるつもりだった。我々は、当初の企画を超えるこれらの新しい諸映像の分析をするつもりはないが、ただ、映画的な映像との関係が定義されなければならないいくつかの印象は記しておこう。新しい諸映像には、もはや外在性(視界外)はなく、一つの全体の中に内在化されているだけだ。それらにはむしろ、自身に戻る力のような、裏返すことはできるが重ねることはできない一つの表と裏があるのだ。それらは永遠の再構成の対象であり、そこでは、一つの新しい映像は以前の映像のどんな地点からも生まれることができる。そこでの空間構成は、視角や座標を変化させ垂直性と水平性を取り替え続ける一つの多方向的な空間のため、特権的な方向、特にスクリーンの位置が今でも証言している垂直性の特権を失う。そしてスクリーンそのものも、慣習上垂直の位置を保ってはいても、窓やそれ以上に絵のような人間的な姿勢を示すようにはもはや見えず、むしろ「データ」が書き込まれる不透明な表面、情報テーブルを構成し、情報が《自然》に取って代わり、都市=脳、つまり第三の目が《自然》の両目に取って代わるのだ。そして結局、音響は自身でますます映像の全体像を与える自律性を勝ち取って、音響的なものと視覚的なものという二つの映像は従属性も公約性すらもない複雑な関係に入り、尺度なき一つの共通の限界に達するか、それぞれが自身の限界に達する。こうしたすべての意味において、精神的な新しい自動性は、今度は心理学的な新しい自動機械を指し示すのだ。

[...]スクリーンの垂直性は、もはや慣習的な意味〔方向〕しかもたず、そうしてスクリーンは運動する一つの世界を見せることを止め、整理されているにせよ乱雑にせよ、多くの情報を受け入れる一つの不透明な表面になろうとし、その上に登場人物や物体や言葉が「データ」として書き込まれるのだ。映像の読みやすさは、その表面を、新聞がそうであるだろうな人間的な垂直の位置とは無関係にもしてしまう。スクリーンが絵のフレームまたはマスク(窓)のように作用するというバザンの代替案は、決して十分ではなかった。というのも、オフュルス流の鏡=フレームや、ヒッチコック流のタピスリーのフレームもあったからだ。だが、フレームやスクリーンが計器盤とか、印象〔感光〕や情報のテーブルとして機能するとき、映像は、別の一つの映像の中に切り抜かれ、表面の走査線をとおして表示され、「メッセージの不断の流れ」の中の他の諸映像の上を滑べり続け、そしてショットそのものは、目というよりも、むしろ情報を吸収し続ける多忙な脳に似る。つまり、情報=脳、都市=脳のカップルが、《自然》=目に取って代わるのである。[...]


[...]ジーバーベルクは、敵として、ヒトラーのイマージュを取り上げる。存在していないヒトラー個人ではなく、因果関係に応じてこれからもいっそうヒトラーを作りだしていくだろう一つの全体性のことだ。「我々の内なるヒトラー」とは、単に、ヒトラーが私たちを作ったのと同じく私たちがヒトラーを作ったとか、私たちは潜在的なファシストの要素をすべて作ってしまったとかではなく、ヒトラーは私たち自身の中に彼の イマージュを構成する情報によってしか存在しない、ということを意味している。人は、ナチス体制や戦争、強制収容所はただの映像ではなかったし、ジーバーベルクの立場は曖昧だ、と言うだろう。だが、ジーバーベルクの確固たる考えは、いかなる情報も、それがどんなものであろうと、ヒトラーに打ち勝つには十分ではないということなのだ。いくら全証拠を見せ、全証言を聞かせようとしても、情報を全能(新聞、そしてラジオ、そしてテレビ)にするものとは、その無価値そのものであり、その根本的な無効さである。情報は、その力を築くためにその無効さを使うが、その力そのものも無効であるというものなのであり、だからますます危険なのだ。ヒトラーに打ち勝ちつために情報を超え、その映像をひっくり返さなければならないのは、このためである。さて、情報を超えることは、同時に二つの面から、二つの問いに向かって行われる。つまり、その源は何か、そしてその受け手〔宛先〕は何か?だ。これは、ゴダール的な教育法の二つの問いでもある。情報は、そのどちらにも答えない。なぜなら情報の源は、別の一つの情報なのではなく、その情報自身が知らせることにすぎないからである。情報の堕落があるのではなく、情報とはそれ自体が堕落なのだ。したがって、語られたすべての情報を超えなければならず、純粋な言葉の行為、支配的な神話や流通している言葉やその信奉者等の逆のようなものである創造的仮構、利益や搾取〔開発、操作〕を引き出す代わりに神話を創造できる行為、などを抽出しなければならない。また、視覚的なすべての層を超え、廃墟から去って世界の終わりでも生き延びられ、見える身体の中に言葉の純粋な行為を受け入れることもできる???情報が純粋に知らせるもの???を打ち立てなければならないのだ。『パルジファル』の最初の光景は、ワーグナーの巨大な頭を映し出し、それが歌としての言葉の行為に創造的な機能、一つの神話を与えたこと、ルートヴィヒやカール・マイやヒトラーはそれの取るに足りない倒錯的な使い方で堕落にすぎないということを示す。別の光景では、その大きな頭に由来している視覚的な全空間を横断し、自身の頭が分割されるために世界の果ての最後の空間から二分化されて去っていくパルジファルを映し出し、女の子の方のパルジファルが、贖罪の声を、表明はしないが全存在の中に受け入れることを示すのだ19。視覚的なものと音響的なものの非合理的な循環は、ジーバーベルクによって、情報とそれの超越に関係づけられる。贖罪や、知識を超えた芸術は、まさに情報を超えた創造でもあるのだ。[...]映画の生と生存は、情報的なものとの内なる戦いにかかっている。情報的なものに対して、それを超える問題、その源と受け手〔宛先〕の問題、精神的自動機械としてのワーグナーの頭、心理的自動機械としてのパルジファルのカップル、などを打ち立てなければならないのである21。

19. ミシェル・シオンは『パルジファル』の中で機能しているプレイバックのバラドクスを分析している。〔映像と音の〕同期にはもはや信じさせるという目的がなく、それは、男の声を伴った少女の顔であったり、彼らは互いに自分のものだと主張する二人であったりするなど、その身体が「自分のものであるとする声に対して、これ見よがしによそ者として留まる」真似をするためなのだ。したがって、聞かれる声と見られる身体の解離は、乗り越えられはせず、逆に確認され、強調される。では、同期は何のためなのか、とシオンは問う。それは、神話の創造的機能の中に入るのだ。同期は見える身体をつくるが、それはもはや声を出す振りをする何かではなく、受信者〔受信機〕や絶対的な受け手〔宛先〕をつくる何かなのだ。「それによって、映像は音に言う。あちこちさ迷うのは止めて、私と住みに来なさい。身体は声を受け入れるように開かれているのだから」。参照:「告白」(『カイエ・デュ・シネマ』、338号、1982年7月)。

21. 哲学的には、これはレーモン・リュイエが『サイバネティックと情報の起源』(フラマリオン)で行ったことだ。自動機械の進化を考えて、彼は情報の源と受け手〔宛先〕の問題を提起し、映画のフレーミングの問題と無関係ではない「枠づけ」の概念を構築している。


リンク

www.syberberg.de ここではジーバーベルクのヒットラーが見られます。7時間です。信じられませんよね。

映像について何を語るか『シネマ』に関する論文が読めます。

 


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