%@ Language=Web から引き継ぐ %>
ドゥルーズ『意味の論理学』
この書物は、古代の、そして現代の様々な一連のパラドックスを通して、意味と無意味の地位を、まずは、それらが起こる場所を決定する試みである。「出来事」と呼ばれるものは、厳密には、どこで起こるのか? 深み、高み、表面は、生を構成している複合的な諸々の係わりの内にある。ストア派は、哲学者の一つの新しいタイプであった。ルイス・キャロルは、作家の新しいタイプであった。というのも、彼らは、表面の探求にのりだしたからだ。この表面の探求というのは、思考におけるように性においても、心的な生のなす最大の努力であるかもしれない。そしてまた、意味において、また無意味において、「最も深いもの、それは皮膚である」かもしれない。
序
(ルイス・キャロルからストア派へ)
ルイス・キャロルの著作には、現代の読者を喜ばせるものすべてがある。子供向け、とりわけ女の子向けの本。華麗にして、とっぴ、そして秘教的な言葉の数々。暗号格子、コード、解読。デッサンと写真。奥深い精神分析的内容、模範的な論理的かつ言語学的形式主義。そして、こうした現代的な喜びの向こう側に何か別のもの、意味と無意味の戯れ、カオス-コスモスがある。だが、言語と無意識の婚礼は、すでに〔ほかの場所でも〕十分に多様な形で成就され、祝福されている。だから探求されるべきは、まさにルイス・キャロルにおいてその婚礼がどのようなものであったのか、その婚礼が何と結びつき、婚礼は、彼において、彼によって、何を祝福していたのか、ということである。
私たちは、意味の理論を形作る一連のパラドックスを提示することにする。意味の理論がパラドックスから切り離すことができないということは容易に説明することができる。というのは、意味とは、現実存在しない抽象的実体〔entité〕なのであり、無意味とさえも非常に特別な関係をもつものだからである(1)。ルイス・キャロルの特権的な位置は次のことに由来する。それは、彼が始めて、意味のパラドックスを収集したり、書き換えたり、ないし新しく作り出したりして大きく扱い、舞台に引き上げたからである。ストア派の特権的な位置は次のことに由来する。それは彼らが、哲学者の新しいイメージを、ソクラテス以前の哲学者たち、ソクラテス主義、プラトン主義などから切り離された形で創り出したからである。そして、この新しいイメージは、意味の理論のパラドックスをはらんだ構成と、それ自体すでに緊密に結び合わされている。それゆえ、それぞれのセリーは、歴史的な人物〔figures〕だけにではなく、むしろトポス的〔説得の議論を構成する文飾となるようなものの〕、また論理学的な〔三段論法における格のように、推論を規定する型のようなものの〕フィギュールと対応している(1)。ある純粋表面〔une surface pure〕におけるように、あるセリーにおけるこうした人物のある論点は、他の人物のある論点を参照させる。たとえば、対応するサイコロの諸々の振りを伴った諸問題の布置の総体、諸々の物語と場所、一つの複合的な場所、一つの「もつれっ語」である(2)。本書は論理学的・精神分析的な小説風の試論である。
第一のさまざまな逆説
純粋生成について
・尺度づけられた現実と途方もなく成ること〔devenir-fou〕というプラトンの区別。
『不思議の国のアリス』、そして『鏡の国のアリス』において問題にされているのは、非常に特別な事態の一つのカテゴリー〔une catégorie de choses〕、つまり、諸々の出来事、純粋な出来事である。私が「アリスが大きくなる〔devient〕」と言うとき、私は、アリスが以前の彼女よりも大きく成る、ということことを意味している。しかし、まさにそのことによって、彼女は今より小さく成る。もちろん、アリスがより大きく、かつ、より小さくある〔est〕のが同時なのではない。そう成るのが同時なのだ。彼女が今はより大きい、ということは、以前にはより小さかったということである。ところが、人が、かつてよりもより大きく成り、成っているよりもより小さくなる〔se faire plus petit〕ことは、同時に、一度に起こることなのである。これが生成〔成ること〕の同時性〔simultanéité〕であり、その特性は、現在を逃れる〔esquiver〕ということである。生成は、現在を避けるものとして、以前〔l'avant〕と以降〔l'aprés〕の、過去と未来の分割も区別も受け入れない。同時に二つの方向へと進み、引かれるということは生成の本質に属している。つまり、アリスは小さくなることなしに大きくなることはできないし、その逆もまた然りである。良識〔le bon sens〕とは、あらゆる状況において、一つの方向=意味〔sens〕が決定しうる、と主張することだ。しかし、パラドックスとは、二つの方向=意味を同時に主張することだ。
プラトンは、次の二つの次元を区別するように促していた。(1) 限定され、計量された〔mesureés〕事態の次元、ないし固定された質の次元。これらの事態や質は、永続的なものであれ一時的なものであれ、常に、停止〔arrêts〕および静止〔repos〕を、現在の確立〔établissements de présents〕を、主体の指定〔assignations〕を前提としている。つまり、これこれの主体は、これこれの瞬間に、これこれの大きさ、これこれの小ささを持つということである。(2) 度を超した〔sans mesure〕純粋な生成、本物の<途方もなく成ること〔devenir-fou〕>の次元。それは、二つの方向=意味において決してとどまることなく、常に現在を逃れており、未来と過去を、より多くとより少なくを、過剰〔trop〕と不十分〔pas-assez〕を、不従順な質料における同時性において〔dans la simultanéité d'une matière indocile〕一致させている〔coincider〕。(「より暖かいとより冷たいは、常に前に進んでとどまることがない。他方で、定義された量は停止であり、存在をやめることなしには進まないだろう」「最も若いものは、最も年老いたものよりも老いたものとなり、最も年老いたものは、最も若いものよりも若くなる。しかしこうした生成を成し遂げることは彼らにはできない。というのは、もし彼らがそれを成し遂げてしまえば、もはやそう成りはしないだろう。彼らはそうあるだろう……」)(1)。
このプラトン的な二重性〔dualité〕を認めることにしよう。これは決して、可知的なものと可感的なものとの二重性ではないし、イデアと質料とのそれでもなく、イデアと物体とのそれでもない。それはもっと深く、もっと秘密で、可感的かつ質料的物体そのものの内に埋もれている二重性である。イデアの作用〔l'action de l'Idée〕を受けるものと、この作用から免れる〔se dérobe〕ものとの間のかくれた二重性である。それは、一つのモデルとその諸々のコピーとの間の区別ではなく、諸々のコピーと諸々のシミュラークルとの間の区別なのだ。純粋な生成、つまり、無限定なもの〔l'illimité〕は、それがイデアの作用を逃れ、モデルとコピーとを同時に異議を唱えるものとして、シミュラークルの質料である。尺度づけられた現実は、イデアのもとにある。しかし、そうした現実そのものの下には、イデアによって課され、現実によって受容された秩序の手前に存続し〔subsiste〕、援助する〔subvient〕狂った要素があるのではないだろうか。プラトンでさえ、純粋生成は言語との大変に特殊な係わりにおいてあるのではないかと、自問している。これが『クラチュロス』の主要な意義の一つであるように思われる。この係わりは、パロールの「流れ〔flux〕」におけるように、また、絶えずそれが差し送る何かへと滑っていく、決して停止しない熱狂した言説〔discours fou〕におけるように、言語にとって本質的なものなのだろうか。それとも、二つの言葉〔language〕、二種類の「名」があり、一方はイデアの作用を受ける停止や静止を指示しており〔designant〕、他方は御しがたい諸運動あるいは生成を表現している〔exprimant〕のだろうか(2)。それとも、一般に言語(ランガージュ)の内部には、二つの異なった次元があり、一方は常に他方によって覆い隠され〔recouverte〕てはいるが、他方の下で「潜んだままで到来し〔subvenir〕」存続し〔subsister〕続けているのだろうか。
・無限の同一性
現在を逃れる能力を持っている、この純粋な生成のパラドックスとは、無限の同一性〔identité infini〕である。つまり、未来と過去、前日と翌日、より多くとより少なく、過剰にと不十分に、能動と受動、原因と結果といった、同時に二つの方向=意味が無限に同一なことである。限界(たとえば、過剰〔trop〕が始まる時期)を固定するのは言語である。だがまた、こうした限界を超え、限界を無限定な生成と無限に等価なもの〔l'équivalence infinie d'un devenir illimité〕に復元するするのも言語である(「赤くなった火かき棒を、あまり〔trop〕長いあだい持つな。やけどするぞ。あまり深く切るな。血が出るぞ」)。アリスの冒険を構成している転倒はここから由来する。<大きくなることと小さくなることの転倒>。「どっちの方向? どっちの意味?」とアリスは、それがつねに二つの方向に同時にそうであることを予感しながらアリスは尋ねる。結果として、一度だけ彼女は、光学的効果のおかげで同じ大きさにとどまる。<前日と翌日の転倒>。現在は、常に逃れられている。「前日と翌日のジャム〔混ぜ合わせ〕。でも決して今日じゃない」。<より多くと、より少なくの転倒>。5つの晩は、1つの晩より5倍寒い。「けれども、同じ理由で、5つの晩は、5倍暖かくもなけりゃいけない」。<能動的なものと受動的なものの転倒>。「猫がコウモリを食べるの?」は「コウモリが猫を食べるの?」と同じである。<原因と結果の転倒>。過ちを犯す前に罰せられ、刺される前に悲鳴をあげ、取り分ける前に盛り付ける。
・アリスの冒険、あるいは「出来事」
無限な同一性において現れるこうした転倒は、すべて同じ帰結をもたらす。それは、アリスの人格の同一性への異議、つまり固有名の喪失をもたらすのである。固有名の喪失は、アリスの冒険全体を通して幾度も繰り返される変事〔aventure〕である。というのも、固有名、ないし単称名は、ひとつの知の永続性〔permanence d'un savoir〕によって保証されているからだ。この知は、停止と静止を、そして実詞〔substantif〕と形容詞〔adjectif〕を指示する普通名詞のうちに具体化されている。固有名は、この普通名詞とつねに係わりを保っている。こうして、人称的な〔個人的な〕自我は神と世界一般を必要とすることになる。しかし、実詞と形容詞が溶け始めるとき、停止と静止の名詞が純粋な生成である動詞によって運ばれ〔sont entrainés〕、出来事の言語(ランガージュ)のうちへと滑っていくとき、自我にとっても、世界と神にとっても、すべての同一性は失われる。それは、知と暗唱〔récitation〕の試練であり、そこで、斜めに到来し〔viennent de travers〕、動詞によって抜け道へと運ばれた語がアリスからその同一性を剥奪する。まるで出来事が、言語(ランガージュ)を通じて知と諸々の人格〔personnes〕とに伝わっている非現実性〔irréalité〕を享受したかのようだ。というのも、こうした人格の不安定さは、起こること〔ce qui se passe〕と無関係な懐疑などではなく、出来事が常に二つの方向=意味に同時に向かうかぎりで、出来事自体の客観的な構造だからである。出来事はこの二つの方向にしたがって主体を引き裂く。まず、パラドックスは、一方通行としての良識〔bons sens〕を破壊するものなのだが、第二に、不変の同一性を付与するものとしての常識〔sens commun〕を破壊するものでもある。
(1) プラトン、『ピレボス』(プラトン全集第4巻)24 d。『パルメニデス』(プラトン全集第4巻)154-155.
(2) プラトン、『クラチュロス』(プラトン全集第2巻)437 sq. これより前のことすべてについては、付論Iを参照せよ。
第二のさまざまな逆説
表面の諸効果について
・物体あるいは現実の状態と非物体的な効果あるいは出来事というストア派の区別
セリー8、構造について(p.63-64)
*不均衡ゆえに出来事を可能にする構造
レヴィ=ストロースの逆説
シニフィアン系列:先行する全体性を組織、つねに多すぎる。言語の秩序に属する
→社会を規制するコードに属し、それゆえある社会からほかの社会へと移ることによって変化するもの、社会
シニフィエ系列:生産された全体性を秩序、認識されるものの秩序に属する。運動法則に従う
→どんな特殊な文化にも、どんな規範にも依存せず、普遍的で自発的なもの、自然
認識作用の全体化はラングまたは言語の潜在的な全体性(=構造)に対して漸近的なまま
ゆえにシニフィアンはシニフィエを全体化することはできない。両者は不均衡。
ロビンソンの逆説
シニフィアン:社会や文化。ノモス。無意識的。一挙に与えられる。
→「言語は,動物的な生活の段階におけるその出現の瞬間や状況にかかわらず,突然にしか発生しなかった」
シニフィエ:自然。ヒュシス。超越的。その征服は少しずつ。
両者のへだたり、不均衡が革命を可能にする。あるいは手直しを求める。
改良主義もしくは官僚主義の誤り:自然の征服に合わせて社会を改良しようとする技術者
全体主義の誤り:社会に合わせて自然の全体化をはかる専制者
どちらも同じ。統一したり中心化しようとしたりすることは逆行だ
→構造主義者は、シニフィエのセリーのリズムに従って記述した(第三次的なコード)
それに対して、革命家は構造の中で出来事を夢みる
セリー13:無方向nonsenseな意味が皮膚の深層にある。アルトー。
セリー14:物体=身体の能動・受動のeffetであるできごとは、物体的原因である混交と非物体的準原因である他のできごとに従属している。意味が船員との性質の差異を確保するかぎり意味は無感動または中立であるが、意味を生産・配分する準原因との関係において意味は生成する力である。この二契機の関係は?
セリー15:特異的で潜在的なできごとは、metastableなシステムとして組織され、自己統一のプロセスを持ち、表層で行われる。その表層はnonsenseな意味の場であり、中立性を示している。超越論的な真の生成は非人称的で前個体的。ニーチェ。
セリー16:
特異性はセリーに沿って延び拡がって世界を構成(実現&表現)し、個体は世界を現在においてしばらくのあいだ作り直したりする……
実現の最初のレヴェルにおいては、世界(le monde)と個体的自我が生み出されるが、この世界のなかでcompossibiliteをもったひとつの特異的連続体continuum、つまりモナドが規定され、それぞれのモナドは共存・継起する述語によってそれぞれの世界(des mondes)を表現する(p.134f)。
incompossiblesな良い母親と悪い母親のおっぱいが同一視されるとき、分割していたエゴは統合されて認識主体としてのエゴ=人格が現れ、Welt(第二の複合体)に直面する(p.137)。あいまいなもの???
セリー24
セリーの分岐や諸要素の分離ができごとの両立不可能性の規則と見られるのではなく、それぞれの分岐や分離がその差異によって肯定されるには、それら相互の積極的な距離が重要だ。対立を同一化するのではない積極的な距離とは、トポロジー的であり、表層に属している。距離を肯定する論理的判断とは無関係な視点は、ライプニッツが考えたように同一の事物に集中したときにコミュニケートするのではなくて、それが肯定する多様なものに開かれているのである……。よってl'incompossibleはコミュニケーションの手段。
La distance est l'affirmation de ce qu'elle distanci.
賢者は、表層において何を発見するか。永遠の真理において、つまり、事物の状態のなかでの空間=時間的なできごとの実現とは無関係にできごとの底にある実体において把握された、純粋なできごとである。或いは、同じことになるが、 純粋な特異性であり、また、それらの特異性を具体化もしくは実現する個人・人間とは無関係な、偶然的な要素において 把握された特異性の放出である。
「もしも戦闘が他のできごとのなかのひとつの例ではなく、本質的なできごとであるとすれば、おそらくそれは戦闘が同時に多くの仕方で実現され、参加者のおのおのが可変的な現在のなかの異なった実現のレベルでその戦闘を捉えることができるからである。... 戦闘はそのあらゆる暫定的な実現に対して中立であり、勝者と敗者に対して、臆病な者と勇敢な者に対して中立で無感動であり、そのために恐ろしく、けっして現在にはなく、つねにこれから起こるもの、すでに過ぎ去ったものであり、戦闘それ自体が無名の者に対して吹きこむ意志によってでなければ把握されえない。それはもはや勇敢でも臆病でもなく、勝者でも敗者でもありえず、それほどまでに向こう側に存在し、できごとが成立する場にいて、その恐るべき無感動に加わっている、致命傷を負った兵士における《無関心の》と呼ぶべき意志である。《戦闘》はどこにあるのか。兵士が逃げるとき、自分が逃げるのを見、跳ぶときに自分が跳ぶのを見るのはこのためである。この兵士は戦闘と自分自身の肉体とのなかに具体化されるできごとについての《意志的直観》によって、勇気と臆病を超えたところ、できごとの純粋な把握に到達するためには、兵士を長いあいだ征服しなくてはならない。この《意志的直観》とは、できごとが兵士のために作るものであり、さまざまなタイプの実現にまだ対応する、あらゆる経験的直観とは異なるものである。」(16)