Deleuze, Cinema I  Image-mouvement, 1983
ドゥルーズ『映画1 運動イマージュ』

英語版への序文

この本が試みるのは、映画史をかたち作ることではなく、あるいくつかの映画的な概念を抽出することである。これらの概念とは(様々な類のショットやカメラワークの違いのような)技術的なものでもなければ、批評的なもの(例えば様々な偉大なジャンル、つまりウエスタン、探偵映画、歴史映画などなど)でもない。これらの概念は、映画は万人に共通な言葉であるとか、映画は言語などと言われてきたというような意味での言語学的なものではない。我々にとって映画は、複数のイマージュと記号(シーニュ)から構成されているように見える。それは、前言語的な知的な内容(純粋な記号論)なのだが、一方、言語学的直観の記号学はイマージュを無視し、記号(シーニュ)を無しですませてしまいがちである。それゆえ、我々が映画的な概念と呼ぶものは、イマージュの様々なタイプであり、それぞれのタイプに対応する記号である。それゆえ、映画のイマージュは、「自動的なもの」であり、まず運動イマージュとして現れるので、我々は、どのような条件で異なるタイプにそれぞれ分類されるのかを考察した。これらのタイプは主に、知覚イマージュ、変容イマージュ(affection-image)、行動イマージュである。この分類は確かに、時間の表象を決定するのだが、しかし、時間はモンタージュに依存し、運動イマージュに由来する限りにおいては、間接的な表象の対象にとどまることに注意しなければならない。

 第二次大戦以来、直接的な時間イマージュが映画に形作られ導入されてきたということはありうることだ。もはやいかなる運動も存在しなくなるということではなく、哲学において随分昔に起こったように運動と時間の関係においてひとつの逆転が起こった。即ち、もはや時間が運動に関係付けられるのではなく、運動の変種(例外)こそが時間に依存するのだ。時間の間接的な表象が運動に由来する代わりに、運動に由来するのは直接的な時間イマージュであり、つまり、その直接的な時間イマージュこそが偽りの運動を引き起こすのである。どうして世界大戦によってこの逆転、即ち、ウエルズによる、ネオリアリスムによる、ヌーヴェルヴァーグによる時間の映画の出現が可能となったのか?ここで再び、イマージュのいかなるタイプがそうした新たな時間イマージュに相当するのか、そしていかなる記号がそうしたタイプと結合するのか、を見つける必要があるだろう。おそらく、全ては感覚運動図式(シェーマ)の崩壊の内に突然現れたのだ。その図式とは、知覚と情感と行動を結びつけていたものであり、イマージュの一般的な体制が変化されることなしには、深刻な危機へとは入っていかないものである。(イマージュの一般的な体制が変化してはじめて、深刻な危機へと入ってゆくのである)いずれにしても、映画はここにおいてトーキー映画について起こった変化よりもずっと重要な変化を経験したのだ。

時間イマージュの現代的な映画は運動イマージュの古典的な映画よりも「価値がある」といっているのではない。我々は価値のヒエラルキーが当てはまらない傑作だけを問題としている。映画は、常に可能な限り完璧であり、そして映画は、映画が発明し、ある与えられた瞬間にその意のままになるイマージュや記号を考慮に入れている。このため、ここでの研究は、数々の優れたイマージュや記号を作り出しまた刷新してきた偉大な映画監督についての「モノグラフ」に、イマージュと記号の具体的な分析を織り交ぜる必要があるのだ。

第一巻は運動イマージュを取り扱う。第二巻は時間イマージュを扱うことになるだろう。もし第一巻の終わりで、ヒッチコック ―イギリスの偉大なる映画監督のひとり― の重要性を完全に理解しようとするならば、それは彼がイマージュの特別なタイプを発明したと我々が考えるからである。即ち、心的関係というイマージュのことである。関係ということは、その諸項と無関係に、いつもイギリスの哲学的な思想の対象であった。ある関係が消滅するか変化をするとき、その諸項に何が起こるのか?即ち、『スミス夫妻』(マイナー喜劇であるが)で、急にそうしたこと、つまり彼らの結婚が非合法で、まだ結婚してはいなかったことを知るある男女に何が起こるのかを、ヒッチコックは問うているのである。ヒッチコックは関係の映画を作る。それはまるで、イギリス哲学が関係の哲学を作り出したように。この意味においておそらく彼は、2つの映画、即ち彼がこなしている古典的な映画と彼が準備している現代的な映画の、結節点に存在している。こうした全ての点において、偉大な映画監督を、画家、建築家、音楽家と比較するのでは十分ではない。偉大なる映画監督は、思想家と比較されねばならない。映画の危機という問題が、テレビそれから電子的なイマージュの圧力のもとにしばしば生じるが、テレビや電子的イマージュの創造性も、偉大な映画監督がそれらに対し貢献するものから切り離せはしない。むしろ、音楽におけるブーレーズのように、彼らは未来において可能となる新たな素材や手法に対し権利を主張するのだ。


序文

  これは映画史の研究書ではない。イマージュと記号を分類する試みである。
アメリカの論理学者パースはしばしば参照されることになる。なぜならパースは、自然史でいえばリンネのように、イマージュと記号に関して、これまでで最も完全で網羅的な分類を確立したからだ。
  パースに劣らず重要なのがベルグソンの『物質と記憶』(1896)である。これは心理学が当時直面していた、ある危機に対する診断書だった。そのころすでに、運動=外界における物理的現実、イマージュ=意識の中の心理的現実、という二分法が成り立たなくなってきていたのだ。 ベルグソンが発見した「イマージュ運動」と、より深い「イマージュ時間」は今日 においても深さと豊かさをもっており、そのすべての結果が引き出されているのか定かではない。ベルグソン自身はのちに映画に対するやや短絡的な批判を書くが、これは「イマージュ運動」と映画的イマージュの結びつきを何ら妨げるものではない。
  偉大な映画作家は思想家に似ている。彼らは概念の代わりに「イマージュ運動」と「イマージュ時間」を使って思考する。
映画作品全体の中で大きな割合を占めるのは駄作だという指摘はこのことに対する反論にはならない。映画の場合、駄作が他のジャンルとは比較にならないような商業的かつ経済的結果を生むことはあるが、駄作が占める割合が他のジャンルに比べて例外的に大きいわけではない。 それゆえ、偉大な映画監督たちは他ジャンルのアーティストよりも傷つきやすく、製作の邪魔をするのが簡単なだけだ。映画史は殉教者の長いリストなのだ。映画は、それでもなお、芸術と思考の歴史に所属している のだが、それは、それにもかかわらず優れた作家たちが発明することができ、上映することができる、かけがえの無い、自律的な形式においてでである(Le cinema n'en fait pas moin partie de l'histoire de l'art et de la pensee,, sous les formes autonomes irremplacables que ces auteurs ont su inventer,, et faire passer malgre tout.)
 我々は本文の説明となるような写真は一切掲載しない。なぜなら、むしろテクストのほうこそが数々の偉大な映画の単なる説明でありたいと思うからであり、 そうした映画については我々のそれぞれが多かれ少なかれ思い出や感動や知覚を持っているからだ。Nous ne presentons aucune reproduction qui viendrait illustrer notre texte, parce que c'est notre texte au contraire qui voudrait n'etre qu'une illustration de grands films dont chacun de nous a plus ou moins le souvenir, l'emotion ou la perception."


第1章 運動についての諸テーゼ 

1 ベルクソンについての第一の注解

 ベルグソンは運動についてのテーゼを一つだけ提唱したのではなく、三つ提唱した。一番目のものは最も有名であり、他の二つのテーゼを隠す恐れがある。しかしそれはその他のテーゼへの導入であるにすぎない。 一番目のテーゼによると、運動は覆われた空間(espace parcouru)と区別される。覆われた空間は過去であるが、運動は現在であり、これは覆い包もうとする動きなのだ。覆われた空間は分割可能であり、実に無限に分割可能なのだが、一方、運動のほうは分割不可能であるか、または、それが分割されるたびごとに質的に変化せずには分割されないのである。これはすでに、より複雑な考えを前提としている。つまり覆われた空間は全て 、一にして同じの均質的空間に属するが、運動のほうは異質であり、互いに還元不可能なのである。

 しかし、一番目のテーゼは、これが展開する前に、もうひとつの命題を含む。即ち、運動を、空間における諸々の地点や時間における諸々の瞬間、つまり諸々の不動の「断片」でもって再構成することはできないということだ。もし、再構成できるとするならば、継続という抽象的な観念、即ち機械的で均質で普遍的で空間から写しとられた時間、つまり全ての運動において同じである時間という抽象的な観念を、諸々の地点や諸々の瞬間に加えることによってである。しかしそうすれば、二つの仕方で運動を取り逃がしてしまうことになる。1つには、2つの瞬間、あるいは2つの地点を無限と和解させることはできるが、運動は常にその2つの間の隔たりにおいて、すなわちあなたの背後において、生じるだろうということだ。もう1つは、いくら時間を分割し、再分割しても、運動は常にある具体的な持続において生じるだろうということだ。即ち、諸運動はそれ自身の質的な持続を持っているということである。それゆえ、還元できない二つの定式、つまり「現実の運動 → 具体的な持続」と「不動の断片+抽象的な時間」を対立させる。

 1907年、ベルクソンは『創造的進化』において、不正確な定式にある名前を付けた。それは「映画的錯覚」である。実際、映画は2つの相補的なものとともに機能する。即ち、イマージュと呼ばれる瞬間的な断片と、非人称で均質で抽象的で不可視で知覚できない、装置の「中に」あるもの、それと「ともに」イマージュを裏切らせる時間や空間である(EC322-323)。それゆえ映画は、我々に偽の運動を与える。それは偽の運動の典型的な例である。しかし奇妙なことに、ベルクソンは非常に古いイリュージョンに対し、現代的で最近のものである名前(「映画的」)をつけるだろう。実際ベルクソンは、映画が動的な切片でもって運動を再構成するときに、映画は非常に古代の思想(ゼノンのパラドックス)によって既になされてきたもの、自然的知覚が行っていることを単にしているにすぎないのだと述べる。この点においてベルクソンの立場は、現象学の立場とは異なる。現象学の立場は、その代わりに、映画を自然的知覚を取捨するものとしてみたのである。「我々は、過ぎ行く現実を、それがそうであった通りに写真に撮る。そしてそれらは、現実の諸特徴であるので、我々はそれらを、生じつつある抽象的で、画一的で、不可視なもの、即ち知識という装置の背後に置かれたような状態にして、一続きにするだけでよい。知覚、知性、言語は一般的にそのように進んでゆく。我々は生じつつあるものについて考えようとも、それを表現しようとも、あるいはそれを知覚しようとも、ある種の映画トグラフを自己の内部に進行させること以外のことはほとんど何もしない。(『創造的進化』岩波文庫版P358)このことは、ベルクソンにとって映画は単なる投影であり、即ち不断で普遍的なイリュージョンの再構成に過ぎないということを、意味するだろうか?我々は常にそのようなことを実現することなく、映画を取り扱ってきたにもかかわらず?しかしそうすると大きな諸問題がまるまる立ち現れてくるのだ。

まず第一に、ある意味におけるイリュージョンの再生産はその(イリュージョンの)修正ではないのか?その手段が人工的なものであるから、その結果も人工的なものであると結論できるだろうか?映画はフォトグラムでもって進行する―即ち、不動の切片でもって―24コマ/秒(最初は18コマ)。しかし、しばしば記されてきたように、我々に与えられるものはフォトグラムではない。即ち、ある中間的なイマージュであり、そのイマージュに対し運動が付け加えられるわけではない。一方、運動は、直接与えられるものとして、その中間のイマージュに属するのである。自然的知覚の立場は同じことだと言われるかもしれない。しかしここで、知覚をその対象において可能にする条件によって、イリュージョンは知覚の「上部」において(知覚されないところで)修正される。しかし映画においては、無条件に、ある観客にとってイマージュが現れるのと同時に、そのイリュージョンは修正される。(この点において言えば、我々が今から見るように、現象学は、自然的知覚と映画的知覚が質的に異なると考えているという点において正しい)要するに映画は、運動がそれに対して付け加えられるようなイマージュを、我々に与えるわけではない。即ち、映画は運動−イマージュを直接的に我々に対して与えるのである。映画は我々にある切片を与えるが、それは動的な切片であり、不動の切片+抽象的な運動 ではない。ここでふたたび非常に奇妙なことは、ベルクソンは完全に動的な切片、あるいは運動−イマージュの存在に気づいていたということである。このことは『創造的進化』の前、即ち映画の公式の誕生以前に起きている。それは1896年の『物質と記憶』において発表された。運動−イマージュの発見は、自然的知覚の条件以前において、『物質と記憶』第一章の特別な発明であった。ベルクソンはその10年後、このことを忘れてしまっていたのだろうか?

あるいは、ベルクソンは他のイリュージョンの犠牲となったのだろうか?その他のイリュージョンとは、最初の段階において、全てのものに影響を与えるものである。物事と人々は、常に自らを隠すよう仕向けられ、はじめには自らを隠さねばならないことを、我々は知っている。他に何ができようか?物事や人々は、それらをもはや含みはしないある集合(集団)の中に居るようになり、そして排除されないようにするため、それらはその集合(集団)と共通に保持する特徴を表明しなければならない。ある物事の本質は、決してその初めには表に現れはしないが、その途中、それらの成長過程においては、その強度は保証される。ベルクソンは永遠性という問題の代わりに、「新しさ」という問題(なにか新しいものが生産されたり、出現したリすることはいかにして可能か)を主張することにより、哲学を変容させてきて、このことについて他のだれよりも良く知ることとなった。例えば、ベルクソンが言うには、生の新しさはそれが生じる際には現れるはずがない。というのも、生が始まる時に生は物事を真似するように仕向けられるからだ、というのだ。。。それは映画と同じことではないか?映画は当初、自然的知覚を真似したものではなかったか?そしてさらに言うならば、映画の立場は、その当初においては、どのようなものであったのか?まず一方においては、視点は固定され、それゆえショットは空間的で、厳密に不動であった。もう一方において、撮影機器は上映機器と組み合わされており、画一的で抽象的な時間が授けられていた。映画の発展、即ち、それ自体の本質あるいは斬新さを獲得することは、モンタージュや、移動カメラや、視点を解放することによって生じた。そしてそれによって、映写から分けられるようになった。そのときショットは、ある空間的なカテゴリーであることをやめ、ある時間的なカテゴリーとなった。そして、その切片はもはや不動のものではなく、動的なものとなった。映画はまさに『物質と記憶』の運動−イマージュを再発見したのだろう。

我々は以下のように結論づけねばならない。ベルクソンの運動に関する第1テーゼは、その最初の見かけよりはずっと複雑なものであると。一方において、空間を覆うことでもって、即ち、瞬間的な不動の切片と抽象的な時間をともに加えることによって運動を再構成しようとする全ての試みに対する批判がある。そしてもう一方において、映画に関する批評がある。それは、こうした錯覚的な試みのひとつとして、即ち、イリュージョンの最高点である試みとして非難するということである。しかし『物質と記憶』のテーゼも存在するのである。即ち、映画の本質や未来を予想する動的な切片、即ち時間的な面(ショット)である。


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