哲学とは何か

哲学とはなんぞや、というのは誰もが初めはする質問だと思う。問いをするのはとてもよいことだ。そして、問いに答えられるというのはもっとよいことだ。この問いに答えられるようになったら、あなたは哲学者であると言ってよい。しかし悪いのは、質問するまえに哲学とはどういうものかを決めてかかることである。そして、そういう人はだいたいが哲学というものを誤解してしまっているはずだ。たとえば、教えてgoo! の哲学関係のコーナで質問されているような問題の99%は哲学の問いではない。というか、そもそも問いになっていないものが多いのだけど。よく問うということが大切だ。そして、じつはよく問うということこそが、哲学なのである。きっと、人はよく問うために哲学を学ばなければならない。

哲学に関する誤解の大きなものとしては、哲学は人生に関する問題に答えてくれる、というような誤解がある。じつはこの誤解には、誤解という以前にいろいろな問題がある。たとえば、問題に答える、というのはどういうことなのか。たとえばあなたがA社とB社から内定をもらって、どちらにするか、これは大きな人生の問題だろうが、それに哲学が答えるとかそういうことなのか。いや、それとももっと根本的に、就職するかしないかという問いに答える、とでもいうのか。つまり、あなたの悩みの処方箋を与えてくれるのが哲学だというのだろうか。じつは、非常に残念なことに、そうではない。おそらくそういう役割は宗教のほうに向いているだろう。この壺百万円で買えば、あなたの悩みは解決しますよ、どうですか。

確かに哲学には倫理という一分野があり、これは人生に関する問題を扱っていると言えるかもしれない。しかし、それが扱うのは、よく生きるとは何か、とか、善とは何か、というような問題であり、あなたの恋人といつ別れるべきかどうかというような問題ではない。そういう問題については、占い師のほうが答えるのに適しているだろう。哲学とはそもそも論なのであって、あなたの人生の問題に答えを示すわけではない。確かに、よく生きる、ということが何か分かれば、あなたの行動は変わっていき、あなたの人生は変わっていくかもしれない。しかし、あなたの人生を変えるほどその考えを自分で支持していなければそういうことは起こらない。誰それがこうこういっているよ、ということを学んだところで、それがあなたの人生を変えるほどの力をもつとは思えない。結局は、あなた自身が自分でその考えに到達しなければ、ある考えがそれほどの力をもつことはないはずだ。そこまで到達するということ、それは間違いなく哲学を持つということだが、それに到達するまでにあなたの人生の大半は決定してしまっているのではないだろうか、というのが私が心配するところである。じつのところ、自分の生き方を探すのにわざわざ哲学などに頼る必要はないはずだ。でも、もしそうじゃないというのなら、一つ考えてみてもよいだろう。実のところ、こっそり言うと、哲学は人生についての問いに答えなどしないが、人生というもののとらえ方を変えることができる、これはある種の哲学が確かに持っている力である。でも、必ずしもそいういう力を持っているのは哲学だけではないのだが。

さて、上の誤解は哲学についての肯定的な誤解である。次に否定的な誤解を取りあげることにしよう。いうまでもなく、哲学は何の役にもたたない、という今日非常に有名となっている誤解である。この誤解も、誤解という以前にいろいろな問題がある。そもそも何かの役に立つというのはどういうことか。確かに哲学を学んでも、あなたと恋人の関係がうまくいく保証はない、むしろ悪くなる可能性の方が大である。上司との関係も同僚との関係についても然りである。おそらく、よい化粧水を買うほうが効果がある。あるいは公開中の面白い映画の情報のほうが。実は、哲学が何の役に立つのか、というような問いに答えられるのなら、それはもう哲学者である。いや、それは当たり前だ。言い方が悪かった。そのような問いの答えを理解できるのなら、そいつはすでに哲学者だ、ということが言いたかった。だからこの問いの答えは、哲学を学んでいくことでしか理解できない。一言で誰もが理解できるようなことではないのよ。そんなの詐欺だ、という方には、もしそれが詐欺だとしてもあなたにたいした被害はないから安心してください、といいたい。でももしあなたが哲学を用無しだと考えて憎しみにまで達しているのなら、そんな抽象的な憎しみで満足できるあなたの人生に満足してください、といいたい。そして、学問の大半は役に立たないことの研究で占められていることをどうか知ってほしいです。そして、たとえその学問や研究が役に立つものだとしても、あなたにとって実際に役に立つようなものはほんのごく一部だ、ということを知ってほしい。けれど実は前から一度聞いてみたかったのだけれど、例えば天動説が間違いで地動説が正しいという考えが、今まであなたにとって何か役に立ちましたか?

地動説に転換したというような大きな学説の変化。これは役に立つとか立たないとかいう次元を超えて、科学の進展の仕方を変えた、そういう変化だ。これがなければニュートンの万有引力説もありえなかったし、飛行機も携帯もない。科学革命と呼ばれるこの転換の意義は、比較的理解しやすいだろう。では、哲学は何をしたのか? この時代には哲学も科学も区別がない、これも哲学だったんだ、と言いたいところだが、まあそれはまあ置いておく。そして実のところ、哲学は科学より後に来る。地球は宇宙で特権的な天体じゃあないし、太陽でさえも一つの恒星にすぎない。そういう考えは、当時の西洋の人々の世界観に大きな影響を与えたわけだ。そして、そういう考えをもとに、新しい哲学が生まれてくる。とはいえ、哲学は科学の民衆版であると言いたいのではない。そうではなく、ある種の考えを純化したものが哲学だと言いたい。そしてその純化された考えは、次の新しい科学上の転換を促す動機になったりする。つまり、哲学とは医学みたいに、個々の状況で役たつとかたたないとかではなく、もっと大きなものである。人々の考え方や、社会のあり方、そういうものをじわじわと変えていく力をもっているわけだ。

でも日本では、とくに哲学なんてものはなかったのに、明らかにだんだんと社会は変わっていったし、人々の考え方も変わっていったはずだ、そういう人がいるかもしれない。これは難しい問題だし、なんとでも答えようがある。一つの答えは、仏教というものは宗教というより、哲学に近いと言える、ということだ。だが仏教はやはり「悟り」が重要なので、体系的な考えを展開するというようにはならないし、個人でとどまってしまう。実際には、やはり日本は哲学がなく、ものの考え方が歴史上で実権を握ることはなかった。近代の一時期を除けば。そしてその一時期の体験が、日本人をして哲学や思想といったもの毛嫌いさせるようになったのだと思う。その結果どうなったか。効率とお金儲けを至上命題に掲げる余裕のない国になった。そして効率優先というのは、じつは現代に特徴的な思想の一つにほからない。ではこれは、一つの哲学といえるのだろうか。

しかし、効率優先という考え方にはたいした根拠がないように思える。経済を発展させるために都合がよいものだ、という意見があるかもしれない。しかしそれは、経済的であるから経済によい、というようなトートロジーをいっているに過ぎない。経済というものがあらゆる価値観と考え方を支配しているからこそ、そのような論理が生まれてくるのである。それは資本主義である以前に経済主義である。そしてそれには根拠がない。しかし、にもかかわらず、それは一つの哲学であると言える。考え方や世界観を与えるものが哲学であるとしたら、経済主義は紛れもなく哲学である。そして人々はそれと知ることなくその哲学に従って生きている。経済主義という倫理があるのであり、それもやはり哲学である。しかし、普通はそれを意識することはない。

だがそれを主題にした哲学書がないではないか、といわれるかもしれない。だがそんなことはあまり重要ではない。哲学が個人名を背負う必要はない。それは〜主義というようなものでもありうる。おそらく、個人の哲学書というようなものは、哲学における特殊な出来事である。多くの哲学は、書かれることなく、時代に浸透している。ここでは「思想」と「哲学」と区別する必要性がない。もっとも、個人の「思想」というようなものはまた別であり、これと時代に支配的な「思想」とは区別しなければならない。後者の思想とは、「考え」というよりも「考え方」のことである。それはあらゆるものの見方を決定するものである。それは科学的探求の仕方をも決定するし、サッカーの解説の仕方も決定する。

さて、ということは、誰もが知らないうちに哲学をもっているのだとしたら、それを学ぶことに意味があるのだろうか? まあそういう疑問をもつ人は学ぶということの意味が分かってない。というのも、自分が知らずしら知らずの内に思いこんでいることを明るみにだし、検証すること、それが学ぶということだからだ。それゆえ哲学を学ぶことは、自分の思考様式を一つ一つ明るみにだし、検討していくということ、これを含む。そしてそのような作業をしているものは誰でも哲学をしているわけなのだ。

狭義の哲学、つまり哲学者の書いた哲学書の集合体としての哲学、それを読むこと、解釈すること、そして哲学史を学ぶことは、その作業の大いなる助けになってくれる。そしてじつは、もし人類が進歩するのだとしたら、そうした作業を人々が絶えず行っていることによってしかありえないのである。


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