政治と精神分析

(3)非シニフィアン的記号論。これはシニフィアンの記号学とは区別されなければならない。ここで問題となるのは要するにポスト・シニフィアン記号論である。非シニフィアンの記号論というのは、たとえば意味作用を生産する使命をおびていない数学的記号の機械とか、科学的、音楽的、芸術的といったような類の技術−記号的複合体とか、あるいはまた分析的な革命機械といったもののことであるといってよい。これらの非シニフィアン的機械はたしかにシニフィアンの記号学に依拠しつづけているけれども、それはもはやひとつの道具、記号論的な脱領土化の手段――記号論的な流れに対してもっとも脱領土化された物質的な流れと新たな結合関係をうちたてることを可能にするであろう――としてシニフィアンの記号学を使っているにすぎない。この結合関係はそれが誰かにとって何かを意味するしないといったこととは無関係に機能する。したがって、バンヴェニストにならって、すべての記号論はその存在を達成するためにシニフィアンの言葉をまぬがれることはできないとみなすことは、ある意味で正しい。しかしそのことは序列化とか従属化といった関係を必然化するものではまったくない。物質−化学的な理論は、みずからを言表するために意味作用や図像(イコン)の言葉にたよりつづけるけれども、だからといって原子や電気の精神的表象を提示しようなどという気づかいはしない。そうした理論はこの種の松葉杖なしにすますことはできないけれども、それが用いるもっとも重要なものはある種の記号機械であり、この機械が実験的複合体と理論的複合体の配備を設定する抽象機械の支柱としての役目を果たすのである。かくしてわれわれは記号機械と科学技術的機械との区別自体が不適当になる地点に達する。新しいタイプの化学連鎖の発明とか微視的物理学における微粒子の発見などは、それらの時空間的な座標だけでなく存在の条件をも決定するであろう記号的生産によってあらかじめ形成されるものであるといってよいだろう。
 かくして非シニフィアン的記号論でもって、記号機械と物質的流れとのあいだの生産諸関係ならびにその相互的創生の関係が根本的にくみかえられるところとなるのである。(98−99頁)


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