ジャック・デリダ『時を与える』

第一章 王の時間

p. 9

銘句

 署名をしているのは一人の女性である。
なぜなら、これは一通の手紙であり、ひとりの女性からひとりの女性へ届けられたのだから。マントノン夫人(Madame de Maintenon)がブリノン夫人に書いたものである[1]。要するに彼女は、この女性は、王に自分はすべてを与えている、と言っている。なぜなら、もし私たちの与えるものすべてが時間のなかにあり、私たちのすべての時間を与えるのなら、そのようにすべての時間を与えるということは、すべてを与え、あらゆるものを与えるということなのだから。
 彼女は太陽王(王と太陽、太陽王、これらがこの講演の主題となるだろう)の影響力のある情婦であり、身分違いの(morganatique)妻[2]でさえあったことが知られている。マントノン夫人は、彼女の手紙の中で、文字通りには、彼女が自分の時間をすべて与えている、とは言っておらず、王が彼女からすべての時間を取ってしまう(「王様は私のすべての時間をお取りになられます」)と言っていることは事実だ。たとえそうだとして、彼女の心のうちではそれが同じことを意味しているとしても、一つの語はほかの語と等しいわけではない。彼女が与えるもの、それは時間ではなく、その残り、つまり残り時間なのだ。「私はその残りをサン=シールに与えている次第ですが、できることならすべてをサン=シールに与えたいのです」。しかし、王が彼女から時間をまるごとそっくり取るのだから、その残りは、尤もな論理、尤もなエコノミーによって、何もない(rien)ということになる。彼女はこれ以上自分の時間を取ることはできない。それ以上時間を持っていないのにもかかわらず、彼女は時間を与える。ラカンは愛についてこう語っている。それは、自分の持っていないものを与えることだと。この定式は、ファルスを奪われているであろう限りでの女性の最終的かつ超越論的な様態の諸々なあり方を『エクリ』[3]が整理したものである。
  ここで、マントノン夫人は、自分は残りを与えていると書き、そして文書で(par écrit)言っている。残りとは何か。それは残りであるのか。彼女は何でもない残りを与える。というのは、それはある時の残余だからであるが、それは、王さまが彼女から時間をすっかり取りあげてしまうので、彼女には時間がまったく残らない、とさっき彼女が文通相手に知らせたものなのである。とはいえ、王が彼女の時間をすべてとってしまうのに、まるで彼女は釣銭を受け取ることができるかのごとく、彼女にはいくらか時間が残っているかのように見える、この逆説を強調しておかなければならない。それゆえ、「王様は(彼女に属している時間を)私のすべての時間をお取りになられます」と彼女は言っている。しかし、いかにしてある時間が属しうるのだろうか。時間をもつとはどういうことなのか。もしある時間が属するとすれば、それは換喩的な意味においてであり、つまり時間という語が時間それ自体を意味しているのではなく、時間を、時間の形式を、形式としての時間を満たす諸々の事柄を意味しているのである。それゆえ問題となるのは、それにもかかわらず、そのあいだに(cependant)私たちがなす事柄であり、その時間のあいだに(pendant)私たちが自由にすることなのである。そうだとすれば、時間はそのものとしては誰にも属さないのだから、時間そのものを取りあげることができないのと同様、与えることもできない。すでに、取ることと与えることとの間の、それゆえまた受け取ることと与えることとの間の、 もしかしたら受容性と能動性と間の、さらには愛されている者とすべての愛情を与える者との間の区別の裏をかくものとして時間は自らを告げているのかもしれない。一見したところ、また通常の論理に従えば、私たちは時間の中にあるものを、ただ換喩的な意味で交換したり、取ったり、与えたりすることができるだけである。まさしくこのことをこそ、マントノン夫人は彼女の手紙のある表面で言わんとしているように思われる。しがたって、王が彼女から時間を、いっさいがっさいを、その時を、あるいはその時間を満たすものを取ってしまうにもかかわらず、彼女には時間が残っている。すべてのものの彼方にあるが故に何でもないある残りが[4]。その残りは何でもないが、しかし彼女が>それを与えるからには、それはある。そればかりか、本質的に言って、それこそが彼女の与えるものそのものなのだ。王がすべてを取り、彼女は残りを与える。残りは存在しないが、与えられる残りはある。もっとも、与えられるとはいえ、それは誰かに与えられるのではない。周知のように、サン=シールというのは彼女の愛人などではなく、とりわけ男性的でもないからだ。それはとても女性的なある場所であり、ある事業、ある施設、より精確に言えばマントノン夫人のある財団である。サン=シールとは、良家の貧しい少女たちの教育を目的としていた慈善団体の名なのである。1715年に王の死のさいに彼女が宣言した誓いに従って、この創設者はそこに引き下がり、おそらく、その時間すべてを捧げることができた。与えられた残り、そして与えられた残り時間の問い、それは王の何らかの死と秘密裏につながっていると言えるのだろうか。このように、全く存在しないが、にもかかわらずあるその残りは、誰かに与えられるのではなく、若い乙女たちの基金に与えられる。>そしてその残りは決して十分には与えられない。「私はその残りをサン=シールに与えている次第ですが、できることならすべてをサン=シールに与えたいのです」。彼女は、自分がもっていないその残りを与えることに決して飽きない。そして彼女、マントノン夫人が、できることなら自分はすべて(le tout)を与えたいのです、と書くときには、その文面の書き言葉的な文体(l’écriture littérale)に、>その文面の文字(la lettre de sa lettre)に注意しなければならない。この文面はほとんど翻訳しがたいもので、言葉から言葉への交換に挑む。問題なのは一つの手紙であることを強調したい。というのも、口頭の場合など異なる文脈においては同じようには言われないだろうから。それゆえ彼女が、自分はすべて(le tout)を与えたいと書くとき、彼女はそこに二つの両義性が挟み込まれるままにする。つまり、leは人称代名詞でもありえるし(人称代名詞を逆にするとje voudrais tout le donner〔私はそれのすべてを与えたいのです〕となる)、(名詞化されたtoutの語の前の)冠詞でもありえる(je voudrais donner le tout〔私はすべてを与えたいのです〕)。これが第一の両義性であろう。第二の両義性は、toutもしくはle toutは(王がすっかり取ってしまう)時間についても言われているとも解されうるし、時間の残りについて言われているとも解されうる。つまり、時間および時間を満たしつつそこに現前するものについてとも、同様に、残りおよび残りを満たしつつそこに現前するものについてともとれる。この文章から、満たされない欲望についての際限ないため息を聞き取ることができよう。マントノン夫人は文通相手に、彼女にとって改善の余地のあること(laisse à désirer)すべてについて言っている。彼女の希求は、彼女が王から取られるがままにされているものによっても、彼女が若い乙女たちに、こう言ってよいかもしれないが、それを>現前させる〔プレゼントする〕ことで与えるその残りによってさえも満たされず、実現されはしない。 彼女の欲望は、彼女が与えることのできないものを、すべてを、つまり彼女がプレゼントする(faire présent)ことのできないその余分な残りを>与えたい(voudrait)と、条件法によって、思っているところにあるのだろう。誰も彼女からすべてを取ってしまうことはできない。王も、サン=シールも。彼女がプレゼントすることができないこの余分な残り、まさにこれこそが(そう呼ぶことができるように)今の夫人(Madame de Maintenant)が欲望しているものであり、実際これが、彼女のためにではなく、この残りを与えることができるために〔pour le pouvoir donner〕彼女が欲望するだろうものなのだ。それはもしかしたら、与えるという能力のために〔pour le pouvoir de donner〕かもしれないし、与えるというこの能力を自らに与えるためにかもしれない。彼女は時間が足りてなくはないことに足りておらず、十分に与えていないことに足りていない。彼女には、残ってはいるが与えることのできないこの残り時間が足りないのであり、このことを彼女はどうしようもないのだ。この余分な残り時間、尤も、何ものでもなく、誰にも固有のものとして属していないある時の残余、この残り時間の残余、これこそが彼女の欲望のすべてなのである。欲望と、与えたいという欲望は同じものだろうし、ある種のトートロジーだろう。しかしまた、不可能なもののトートロジックな指示なのかもしれない。もしかしたら不可能なものの。与えることと取ることは、何よりもまず一つのものなのではないだろうが、もしそれらが同じで、同じことであっても、もしかしたら不可能なものの。
 
 
 ここで、どこまでもいたって明晰な言葉と身振りをめぐって、もっともらしいお話をつくっていると、私を非難することもできるだろう。マントノン夫人が、王が彼女の時間を取ってしまうと言うのは、彼女はまさにそれを彼に与えたいからであり、そうすることが楽しいのだ、と。つまり、王は彼女から何も取っているのではなく、彼は取ると同じだけのものを彼女に与えているのだ、というわけだ。だから彼女が、「私はその残りをサン=シールに与えている次第ですが、できることならすべてをサン=シールに与えたいのです」と言うとき、彼女は文通相手に、対面を保つことにいささか忙殺されている貴婦人の余暇と慈善事業に、仕事と日々に関する毎日のエコノミーを打ち明けている、ということだ。彼女の書くどの言葉も、私の読解がそちらへと引きずっていった、思考しえないものと不可能なものの、つまり与える−取るの、時間と残りの射程を持ってはいないというわけだ。彼女はそんなことを言いたかったのではない、とあなた方は言うのだろう。
 だが、もしも。
 だが、もしも、彼女の書いていることがそういうことを意味しているなら、そうだったら、それは何を前提とするべきなのか。どのようにして、どこで、何から出発して、そしていつ、われわれは、私がそうしたように、この手紙の断片を読みうるのだろうか。どのようにしてわれわれは、私がそうしたように、この断片の文字と言語を尊重しながらも、この断片の方向をそらせさえすることができるのだろうか。


[1]  Lettre à Madame Brinon, t. 11, p. 233.(訳注:F.シャンデルナゴール著『王の小径 マントノン夫人の回想』二宮フサ訳、河出書房新社、1984も参照のこと。なお、この文章はリトレの『フランス語辞典』でも引用されている。)

[2]  このような講演のはじめに私が偉大な王の内縁の妻を引き合いに出すのを見て驚かれるかもしれない。しかし私には、マントノン夫人は単なる範例には思われないのだ。というのは、彼女は時間の贈与、そしてその残りの贈与の問いを、女性の、そして貴婦人の立場から提示しているからだ。ルイ14世のもとで「良心の王妃」の役割を果たしたこの女性は、これはめったに偶然的なものではない配置(configuration)なのだが、ある法外のものであると同時に、法の形象そのものであった。王妃の死のあとで王の身分違いの妻(すでに貴族の称号と権利は与えられていた。また、「身分違いの」という語は贈与について、起源の贈与について何らかのことを言っている。この語は、朝の贈与morganegiba〔婚礼の翌朝の贈り物〕という後期ラテン語〔訳注:4から6世紀にかけて使われたラテン語〕に由来している)になる前に、彼女は(王のお気に入りになっていたモンテスパン夫人から彼を遠ざけることによって)太陽王を夫の諸々の義務に導き、(王宮に厳格さを取り戻させることによって、また、カルヴィニズムのもとで育てられていたにもかかわらずプロテスタントの迫害を奨励することによって、そして、ナントの勅令の廃止を支持することによって)カトリック王の義務に導いた。取り、そして与えなければならなかったものに、法に、王の名に、正当性一般に、多くの苦労をした女性は、また王室の私生児の子守役だったのだが、それは、おそらくモンテスパン夫人の保護のおかげで得た昇進であったのだろう。さて、始めなければならなかったところに止まろう。彼女は子供だったとき、マルチニック島〔訳注:1635年から1759年までフランスの植民地であったカリブ海の島。その後イギリスとフランスは交互にマルチニック島を植民地として支配する〕への追放を体験したが、その父親コンスタンは以前に偽金づくりとして逮捕されていた。彼女の生におけるすべては、偽金の最も厳格な、最も厳密な、最も本来的な刻印がしるされているように思われる。
 

[3]  「もし、愛とは自分の持っていないものを与えるということだとするなら……」(Ecrits, Le Seuil, 1966, p. 618);「大文字の他者に満たすことを与えたもの、さらには、その存在が欠けているために大文字の他者がもっていないもの、それが愛と呼ばれるものなのである。しかしそれは同時に憎しみや無知と呼ばれるものでもある」、(p. 627);「こうして、大文字の他者のこの特権は、自らの持っていないものの贈与という根源的な形式を、つまり愛と呼ばれているものを描き出している」(「ファルスの意味作用」p. 691)。性的差異をこえた、愛一般にかかわるように見えるこれら諸々の定式が見せる両性の対照性は、この「それを持っていない」という真実が現れるとき乱される。その真実とはすなわち、ラカン後期の、このエコノミーすべてをよりまとめあげる一つの定式を利用するなら、「女性はquoad matrem、男性はquoad castrationem」となる(Encore, Le Seuil, 1975, p. 36)のだが、このこと〔訳注:両性の対照性を乱すファルスへの関係のこと〕を『エクリ』(「ファルスの意味作用」)に見てみよう。

もし、ファルスのシニフィアンが女性を、自分の持っていないものを愛において与えているものとしてまさに構成しているかぎりにおいて、男性が女性のとの関係において、<自分の愛の要求>を充足する術を見出すというのならば、逆に、<ファルスへの彼自身の欲望>は、このシニフィアンを、このファルスを、あるときは処女として、あるときは娼婦としてさまざまに意味することが可能な「もう一人の女性」へと向かう永続的な逸脱において出現させることだろう(p. 695)……しかしだからといって、男性的機能を構成しているように見えるかもしれないような類の不誠実さが、男性に固有のものであると考えてはいけない。なぜなら、よく見てみれば、同じ二重化が女性においても見出されるからである。女性において違うのは次の点においてのみ(à ceci près)である。すなわち、大文字の他者が、女性がその属性を深く愛している同じ男性の存在の代わりになっている、そうした後退においては、〈愛〉としての大文字の他者、言い換えれば、自らの与えるものを奪われているかぎりでの大文字の他者は、あまり気づかれることがないのである。

「à ceci près次の点においてのみ」と言われるこの男女の違いは、次のように閉じられるこのページで分析されるすべての非対称性を組織する。「これと相関的に垣間見られるのは、フロイトの直観の深さがいま一度はかり知られるというのに、なぜかこれまで一度も説明されたことのないこの特徴の理由である。それは、彼のテキストが示すように、リビドーは男性的な本性(nature)のものとして考えられているのだが、なぜフロイトは、そうしたたった一つのリビドーしかないと主張したか、ということである」。
 「自分の持っていないものを与える」という表現はハイデガーにもある。特に1950年の「アナクシマンドロスの言葉」、『杣道』(Chemins qui ne mènent nulle part, Gallimard, 1962, p. 290)において。また他のページ、もっと前の箇所(p. 202 sq.)も参照せよ。
 

[4] このあたりのデリダの言い回しは、ラカンやハイデガーのDingに関する議論を意識しているように思われる。(Cf. 大宮勘一郎「有事と越境 ハイデガーのDing/ラカンのDing」、『フランス哲学・思想研究』日仏哲学会、2002)


p. 17

 不可能なことから始めよう。

 


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