1. 絶対的な〔absolu〕いまだないのすでにそこに〔le déjà-là du
pas-encore〕は、悟性を通り越し、理性に属しており〔relève de la
raison理性によって揚棄し〕、理性が絶対的に揚棄する〔relève〕ものを構成している。哲学と宗教(ないし家族)との真の係わりは、有限かつ形式的〔fini-formel〕な悟性に見合うものではなく、無限かつ具体的な〔infinie-concrète〕理性に見合うものである。
2. 絶対的ないまだないのすでにそこに〔ある〕(ないし、絶対的な再びすでにもはや〔le déjà-plus de
l'encore〕)は、声と聴覚〔ouïe〕の時間のなかで、いわゆる«理解されるべく自らを与えるもの»を通り越す。それは、絶対的ないまだないのすでにそこに〔ある〕、ないし、絶対的な再びすでにもはや〔ない〕がもはや時間に属していない限りで、つまり純粋な不可感の感性に属していない限りにおいて、未聞〔inouï〕の係わりなのである。それらは永遠の円環ないし非時間的な円環を記述している。それらを時制文法のなかへ、時間と否定の副詞の統辞法のなかへと翻訳すること、このことをヘーゲルは、円環の中へとただちに引き戻される円環の外における、身体のなかへの意味〔sens〕の落下〔chute〕として、動詞に対する副詞のある種の偽の接触〔tangentes〕、動詞に対する動詞の時制の誤った接触として規定している。
だが、この落下、動詞のこの奇妙な変容をこそ、絶対的な哲学ないし宗教は説明しなければならない。(揚棄された、キリスト教の、等々の)絶対的な宗教の絶対的な理性は、身体と時間への自己自身の落下を包含している。これがキリスト教の絶対的な特権であり、宗教の絶対的な本質である。すなわちそれは、落下(Saが落ちること=Saの墓)と絶対的な揚棄から出発して、自らを自己規定する。
その諸々の接線〔tangentes〕を引き込み揚棄するこの絶対的円環、その他なるものの追放と集中とを同時に産み出しているこの絶対的円環、これこそが家族の円環である。
このように言明することによって、精神の言葉〔mot
d'esprit〕や家族主義を支持することを求めるのではない。とはいえ、この円環は、精神の言葉の円環であり、そのエコノミーの円環であり、そこで落下し揚棄する言語や語のなかで再び発見される精神の固有性についての法の円環であるということは、さしあたり明確化しないでおこう。
もし、ヘーゲルを理解するなら、そのテクストが言わんとするものの意味を(その図式の内部から)了解するならば、絶対的ないまだないのすでにそこに〔ある〕、または、絶対的な再びすでにもはや〔ない〕を、人が家族〔famille〕について難な