スコラ哲学
トマス・アクィナスはイブン・ルシュドをうけついでアリストテレス哲学とプラトン哲学を根本から思考し直し、存在論に新たな展開を加えた。
スコトゥスは新プラトン主義的な存在の類比説を否定し、存在の一義性を主張した。これは存在論における革命であった。実在の多様さと、個体の個体性を考えるために、存在を生成として思考したのである。そこで問題となっているのは質量と形相の関係ではなく、存在の現働化における「このもの性 haecitas,haecceitas」の実現なのだ。 このもの性とは「形而上学的濃度 gradus metaphysicus」あるいは「内在的様態 modus intrinsecus」のことである。こうした考え方は20世紀においてシモンドンの発生に関する議論にも応用され、さらにはドゥルーズによって強力に展開されることになるのだが、まずはスピノザにおいて展開されたと考えられるだろう。
トマス・アクィナス(1224/5-1274)
『真理論』【中世哲学叢書−3】花井一典訳、哲学書房
ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(Duns Scotus、1265/66-1308)
『存在の一義性:定本-ペトルス・ロンバルドゥス命題註解』花井一典・山内志朗訳、哲学書房(中世哲学叢書 ; 1)、1989
はじめてスコトゥスの翻訳が出ました。画期的です。ウィリアム・オッカム(William Occam、1285頃-1349/50)
『大論理学・注解』創文社、1999
参考文献
ジルソン『中世哲学史』エンデルレ書店、1949
ジルソン『中世哲学の精神』(上・下)筑摩書房、1974
アラン・ド・リベラ『中世哲学史』阿部一智, 永野潤, 永野拓也訳、新評論 , 1999
K. リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』矢玉俊彦訳、平凡社 , 2000
K. リーゼンフーバー『中世思想史』村井則夫訳、平凡社 , 2003
上智大学から出ている『中世思想原典集成』の付録を一冊にしたもの。まあ、あくまで付録かつ「思想史」なので、個々の哲学者の細かい議論についてはふれられていない。イスラムまでもカバーさており、中世初期から盛期にかけての記述はまとまっているが、この著者は最進の研究を参照しているかなと思わせる安易な記述も見られる。人名辞典や思想史事典の一種として利用するのがだとうかな。
F.コプルストン『中世哲学史』箕輪秀二, 柏木英彦訳、創文社 , 1970
田窪一郎『西洋古代中世哲学史』熊本商科短期大学哲学研究室、1965(改版)
出隆『西洋古代中世哲學史』角川書店 , 1949
田窪一郎『西洋古代中世哲学史』熊本学園出版部 , 1963
服部英次郎『西洋古代中世哲学史』ミネルヴァ書房 , 1976
M・グラープマン『中世哲学史』下宮守之訳、創造社 , 1967
安倍能成『西洋古代中世哲学史』(改訂版)岩波書店、1949
山内志朗『天使の記号学』岩波書店(双書現代の哲学)、2001
震源もとはこの本。各方面から絶賛の声が寄せられているみたい。書評はここ。
八木雄二『中世哲学への招待 「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために』 、平凡社新書069、2000.
稲垣良典『天使論序説』講談社学術文庫、1996
宮本久雄『他社の原トポス―存在と他者をめぐるヘブライ・教父・中世の思索から』創文社、2000
山内志朗『普遍論争―近代の源流としての』【中世哲学叢書−I】哲学書房、1992
「私は中世哲学の表看板としては、〈見えるもの〉と〈見えざるもの〉の方がよいのではな いかと思っています。〈見えるもの〉を通して〈見えざるもの〉に到ろうとする傾向が主流であると言いたいのです。……このモチーフは様々なところに見られますが、聖書のなかの一節が重要になります。「今われらは鏡をもて見るごとく見るところ朧なり、然れど、かの時には顔を対して相見ん」(コリント前書一三・一二)というのは中世では決定的なイメージではなかったかと思えます。この世のもの、つまり被造物は〈見えるもの〉としてあって、無限なもの、神的なものはすべて〈見えざるもの〉としてあるが、この〈見えざるもの〉とは人間の認識の枠内に登場しないということではなく、「鏡の中に見るごとく、謎において」(per speculum in aenigmate)見えているものです。この朧にしか見えないような認識の仕方は必ずしも否定的に扱われるわけではなく、そのようにしか人間は無限なものを認識できない以上、その構成を吟味して、「鏡」というのは自分自身の精神のことなのだ、という有力なモチーフも登場してきます。また、「顔を対して(face ad faciem) 見る」ということは、中世の神学では至福直観(visio beatifica)と称されて、それがどの様にして可能になるのかが盛んに論じられたりしました。これは一般には身体性を脱することによってなされると考えられたわけですが、モチーフだけ取り込まれて実はいろんな邪宗に流れ込んでいくということにもなったようです。とにかく、こういう〈見えるもの〉と〈見えざるもの〉というモチーフは中世哲学において最も基本となる図式と私には思われます」
「…私にとって中世スコラ哲学とは共約不可能性の系譜なのです。共約不可能
性を推し進めれば、へたをすると、分裂病に近づきます。うまく行っても、離人症
です。そして中世の哲学者の記述は分裂病に酷似していると言われる場合もありま
す。しかし、中世の哲学者は精神の健全さを失っていないということがあります。
哲学に興味があるということ自体、精神の異常さの発露であるというのであれば、
それはそうかもしれませんが、中世哲学において精神の健全さは失われていないと
すると、その健全さを支えていたのは何かということに一つの鍵があるように思え
るのです。」『季刊哲学2号』ドゥンス・スコトゥス 魅惑の中世、中沢新一 ほか著、1988.4.
論理学固有の概念〈一義性〉を、スコトゥスが形而上学に解き放ったとき、〈存在の一義性〉の問題が露出する。創造主なる無限者と被造物たる有限者を隔てる絶対の距離は消失するか? 一方〈存在〉はスコトゥスの〈端的に単純な概念〉となり、普遍記号学への遥かな途を拓く。神学、哲学から音楽や詩まで、魅惑の中世に訊ねて、現代の問題群を照明。