Maurice Merleau-Ponty()
メルロ=ポンティ


著作

『意識と言語の獲得』みすず
『意味と無意味』みすず、国文社
『言語と自然』みすず
『現象学の課題』(共著)せりか
『行動の構造』みすず
『サルトル/メルポン往復書簡』(共著)みすず
『自然の哲学』御茶の水
『シーニュ』みすず
『心身の合一』朝日出版社
『世界の散文』みすず
『知覚の現象学』みすず、法政
『知覚の本性』法政
『ヒューマニズムとテロル』現代思潮社
『弁証法の冒険』みすず

『見えるものと見えないもの』みすず、法政(『-見えざるもの』)

「私が私の思考の秩序とその連関との存在を信ずるのは、私がまず世界と物との存在を信じているからなのだ。したがって、われわれは、反省している哲学者がおのれ自身のうちに、その思考のうちに、そして世界の手前に探し求めている信念の諸根拠なるものを、反省そのものの根底に、そしていわばその哲学者の面前で探してみるように促されているのである。こうした反省の批判が向けられるのは、反省の初歩的な諸形態、例えば物からひるがえって、物をわれわれに与えてくれる「意識の諸状態」に向かい、あるいは意識流の中に位置づけられた出来事としての、形相的事象性(realite formelle)という点でのみ捉えられたわれわれの「思考」に向き直る心理学的反省だけではない。反復された反省、すなわち意識の諸状態を今度は絶対的主観の面前で構成された諸統一として扱い、主観を心理学的出来事への一切の内属から解放し、そしてわれわれの思考をその「対象的事象性」(realite objective)、観念対象(ideat)ないし意味への純粋な関係として規定するようなより自覚的な反省、この浄化された反省でさえ、世界への開在性を自己の自己への同意に変え、世界の制度化を世界の理念性に、知覚的信念を世界とは無関係な主観の作用ないし態度に変える、という反省の悪徳を免れてはいないのだ。したがって、もしわれわれが二度と引き返しえないこの最初の欺瞞を避けようと思うならば、われわれは反省とともに、また反省を通して、世界の地平に注意を集中しながら、<主観存在>(Etre-sujet)と<存在>そのものをこそ、行きついた反省的宇宙の果てで改めて考えてみなければならない。その世界の地平こそは、ひそかにわれわれの構築作業の導き手となり、また反省の歩みによって当の宇宙を再構成するのだとわれわれが自称しているその歩みの真理をも秘めているはずなのだ。そうした地平は、われわれの懐疑がどんなに否定してみても到底及びえない最初の事実性(positivite)なのである。(「見えるものと見えないもの」、邦訳:滝浦静雄、木田元、みすず書房、76〜7ページ)

『眼と精神』みすず
『メルロ=ポンティの研究ノート』御茶の水
『メルポン・コレクション』みすず
 


参考文献


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