ドゥルーズ&ガタリ『哲学とは何か』

 だからこそ、諸平面は、ときにはたがいに離れ、ときには寄り集まる−それは、よきにつけ悪しきにつけ〔最善の平面にとっても最悪の平面にとっても〕真実である。諸平面には、超越と錯覚を復活させるという共通点がある。

 しかも、内在を《或るもの=x》に引き渡すことのないような、そしていかなる超越的なものの身振りをも真似ることのないような「より善い」平面は存在するだろうか。

  <内在平面そのもの>は、<思考されなければならないもの>であると同時に<思考されえないもの>である、と言ってもよさそうだ。それ自身はまさに、思考における思考されないものであろう。それ〔内在平面ソノモノ〕は、すべての平面の台座なのであり、しかも、それぞれの平面に −すなわち、おのれの方は思考されうるが、それ〔内在平面ソノモノ〕を思考することまではできないといったそれぞれの平面に− 内在しているものなのである。

 それ〔内在平面ソノモノ〕は、思考におけるもっとも内奥のものでありながらも、絶対的な外である。絶対的な外とは、あらゆる内面的世界よりもさらに深い内部であるがゆえに、あらゆる外面的世界よりもさらに遠い外である。

 すなわちそれは、内在であり、「《外》としての内奥、息詰まる貫入へと生成した外部、両者の相互反転」である。〔内在〕平面の絶えざる<行ったり−来たり>−無限運動。それはおそらく、哲学の至高の行為である。すなわち、内在平面ソノモノを思考するというよりはむしろ、内在平面ソノモノが、それぞれの平面において思考されないものとして現にあるということを示す、ということである。(中略)

 無限な<哲学者への−生成>、スピノザ。「最善」の、すなわちもっとも純粋な内在平面、超越的なものに身をまかせることはなく、超越的なものを回復することもない内在平面、錯覚を、悪感情を、知覚錯誤を鼓舞することのもっとも少ない内在平面、これを、スピノザが示し、打ち立て、思考したのである…。

(G. ドゥルーズ+F. ガタリ 『哲学とは何か』 河出書房新社 p.88)


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